株式会社エアデザイン株式会社エアデザイン
「自分のことをマイナーだと思っている、全ての人へ」

「あなたは、ふつうの人ですか?」。
現代においては、価値観の数だけ“ふつう”はあり、個人個人でその解釈にもギャップがある。つまり、誰もがマジョリティ(多数派)であり、マイノリティ(少数派)な存在になりうる。
『東京ふつうの人新聞』とは、そんな“ふつうの交換不可能な個人”を紹介していく、まったく新しいスタイルのWEB新聞です。そうすることで見えてくる、現代の「ふつうの人を再定義」していきます。

黒坂嘉代さん 主婦学生

したいことが仕事になる。これって素晴らしいことだと思うと同時に、現実はそう甘くないということも聞かされている。好きなだけではダメなことも聞かされているし、嫌なことにも耐えなくてはならないと私は教え込まれてきた。「若いころはしたいことより現実に出来ることをやっていた。今はその時の埋め合わせをしているような気がする」。そう語るのは主婦学生の黒坂嘉代さん(42)、この春見事大学の美術史専攻を卒業し、美術館で収蔵保管のアルバイトをすることが決まった。「嬉しかった。学芸員の補佐のお仕事です。縁で決まったのだけど、自分から積極的に動くといろんなものがついてくる、引き寄せられると思う」。(文責:保科時彦)

黒坂さんは自分がいわゆるふつうの学生生活を送ってきたと自認している。ピアノを習ったり、オールナイトニッポンやFMで洋楽を聴いたり、その影響で中学では英語部に入った。人前に出て目立つのがちょっと苦手な少女だったという。高校ではテニス部に入り、そこでは気の置けない仲間ができたが、逆にクラスには馴染めなかったようだ。「本当は四大に行きたかったけど、あまりに勉強しなかった。短大の方が就職に有利というのもあって短大に進学した」という。短大の縮小、閉鎖が続いている昨今の事情からするとピンとこないが、当時は安定志向の女子高生が短大に入学し、四大の女子学生は就職に際してやや不利だった。「バブルちょっと前で女子大生ブームだった。合コンにも行ったことがあったけど、全然合わなかった」。英語サークルで知り合った彼氏とデートして日々を過ごし、バイトで塾の講師をする。健康的なふつうの生活。

「お給料が多くて、お休みが多いから」という理由で損保に就職。「趣味的なことを仕事にしようとは思わなかったです。それよりも待遇を選びました。好きなことは余暇でしようと思っていました」。世はバブルの絶頂期。「恩恵は受けていない。仕事が増えて残業が多かった」とは言うが、やはりポストバブルジェネレーションとは全く異質の熱気があったのは確かなようだ。

ポスバブ世代で「安定」を勝ち得るのはごく一部のエリートとなり、大部分は“不安定で、かつ望まない仕事でそこそこ稼ぐ”か“かなり不安定で、かなり薄給だが希望する仕事をする”かの選択を余儀なくされたような観がある。モテル男子の条件が3高(高身長、高学歴、高収入)から最近は3低(低姿勢、低リスク、低拘束)へと変化したとかしてないとか。それはともかく、このころ男女雇用機会均等法が制定される(1985年)など、女性の社会進出が進んだ時代だったらしい。

バブル崩壊直後の92年、27歳で同僚と結婚し寿退社をする。「(バブル崩壊の影響もなく)山も谷もなく比較的安定していた」というから、またまた羨ましい。「結婚願望はなかったけど、あるとき自分が30歳になっているところを想像したら、結婚した方がいいのかなと思いました。主人の結婚願望が強かったし、この人ならいいかなと思った。年齢的なタイミングが合ったのもあります。それでも結婚後も働いていいという条件を承諾させました」。

こうして客観的には理想的な形で主婦業に突入する黒坂さん。「働くのが好きなので、仕事は辞めたくなかったけど、同じ職場は主人が望まなかったし、主人の転勤が多いのもあって、扶養の範囲内で働いていました。専業主婦は退屈だというイメージがあったし、社会性を身に付けたかったのもあります。人間的に成長できる機会でもあるでしょう」。労働は疎外であると同時に解放でもある。仕事に自分を支配されると同時に、それによって自己実現を達成するということだ。

ニューヨークや香港に赴任していたときは、仕事は出来ないので駐在妻として日本人クラブに行くことが多かったようだ。「ニューヨークで現代美術に惹かれました。香港では閉塞感もありましたけど、ホームシックにかかったりすることはありませんでした。ダンスを習ったり、大学の語学講座で北京語を習ったり日本人以外の人とも友達になりました。アジアは日本に近いとも感じましたし、違いとしては、日本は空気を読む国なんだと思います。香港は個人主義なので、主体が自分。それに影響されて買い物でもふつうに値切れるようになりました」。

そして黒坂さんは36歳にして香港から帰国、今まで派遣で仕事をしてきたけど、派遣では将来が見えないと感じてきたそうだ。「働くのにこだわるのはどうかと思い始めました。主人の病気を目の当たりにしたのもあって、健康だったら通えるうちに、通える距離に住んでいるうちに大学に行こうと思いました。美術の知識があると人生豊かになると思って、念願だった4大を受けることを決意したのです」。ご主人も応援してくれ、お金は折半することになったという。

黒坂さんは当時いわゆるDINKS(ダブル・インカム・ノー・キッズ。収入は夫婦ともにあり、子どもがいない世帯)、先立つものはある。あとは決断だけだ。しかもカルチャーセンターではなく大学を選んだ。やはり本格的に勉強したい、趣味の域を脱したいと思ったからだろうか。「自分が10年後にしていたいなと思うことのために、今やらなきゃいけないことをしないといけない。10年後に後悔するような今は送りたくないんです。今更なんて思わないで、やれるならやっておこうと思います。大学では自分だけ(年齢的に)異質だって感覚は常にあって、それと闘いながら勉強してきました。これからは院の進学も考えています」。

マティスの強烈な色彩感覚に魅せられて、卒論はマティスで書いたが、自分では作品を創ろうとは思わないという。「自分はふつうの人だと思う。ふつうの人はいないと思うけど、ふつうでない部分があまり表にでない人がふつうなのでは」。

今黒坂さんの研究は趣味から仕事へと変わる過渡期にある。それ自体は素敵なことだと思う。しかしふとこうも思う。アートとはそもそも、仕事だったのだろうか、それとも趣味だったのだろうか。つまり、アートとは商品なのか作品なのかの違いを私は問いたい。当然ここには明確な境はない。

昨今(?)自己満足や趣味を仕事と比して何か一段下のものとして蔑視する傾向がある。しかし、モディリアーニやユトリロが客に買ってもらうために絵を描いていたのだろうか。誰に認めてもらわなくてもよいと思って作ったものに、死後たまたま高い値が付いたものは多い。

アートは常に価値の本質を私たちに問い続けているように思えてならない。

自宅
座右の品

自宅


一番寛げる場所、社宅なので概観は好きじゃない。掃除した後の部屋。夏涼しくて冬暖かい

プロフィール

【略歴】1965年7月13日生まれ 愛知県蒲郡市生まれ 東京都江東区育ち 茨城県つくばみらい市在住 江東区立臨海小→同区立深川第三中→都立城東高→文教大学女子短期学部英語英文科→損保会社→結婚・寿退社→派遣など→ニューヨーク滞在→香港滞在→学習院大学文学部哲学科美学美術史専攻3年次編入→卒業【星座】かに座【血液型】B型【家族構成】【趣味】美術鑑賞、勉強【好きな食べ物】牡蠣、カニ、えび、うに【嫌いな食べ物】ない【お気に入りスポット】自宅【尊敬する人】マザーテレサ、香港時代の友人【座右の銘】その時を楽しむ(どんな環境でもそれを受け入れるという意)【好きなタイプ】クリント・イーストウッド、哀愁があり酸いも甘いも経験した懐の広い人【嫌いなタイプ】自分が自分が……という人。謙虚な気持ちがない人【子どもの頃の夢】保育士

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